掃除機496方式(英語名:HAL496 Systems)による英語などの学習方法を提唱するブログです。英文に関して、解説・対訳などの掲載を中心としています。訳し方は、そのときの状況によるので、直訳っぽいのもあったりします。転載及び2次使用可。(C) no rights reserved / aucun droits réservés / keine Rechte vorbehalten / 著作権全面放棄

3.03.2008

The Green Door

CROWN I Reading 2
The Green Door
緑の扉

141A
ニューヨークという大都市では、冒険がいつも待ち受けている。
→大都市ニューヨークでは、冒険がいつでも待ち受けている。
*the big city of New York: ニューヨークという大都市;大都市ニューヨーク▼ofは同格を示す。

どの街角でも、目が私たちの周囲を見張っているし、あるいは、指が私たちに向けられている。
*fingers are pointed at us
指が私たちに向けられている
= S point(s) fingers at us
Sは指を私たちに向けている

冒険はそこにあるのだ。

しかし、私たちのうちのほとんどは、そのことをまったく理解していない。
→しかし、私たちのうちで、そのことを理解している者はほとんどいない。

141B
ルドルフ=スタイナーは真の冒険家であった。
*Rudolf Steiner: 名前からするとドイツ系の移民またはその子孫。なお、オーストリアの神秘宗教家にRudolf Steiner(ルドルフ=シュタイナー)という人物がいる。「シュタイナー」はドイツ語発音。また、近所の図書館で借りた新潮文庫『O.ヘンリ短編集 1』では、どういうわけか「ルドルフ=スナイダー」となっていた。SteinerとSchneiderとを間違えるとは不思議でならないが、翻訳の定本と したものではSchneiderとなっていたのかもしれない。これを除けば、じつにすばらしい翻訳なので、原文と一緒に読んでみてほしい。
追記:SteinerとSchneiderとをまちがえているとすれば、不思議だが、「スタイナー」と「スナイダー」であれば、不思議ではない。「スタイ ナー]の2番目の文字と4番目の文字を入れ替えれば「スナイター」となる。文字が入れ替わるのはよくあることで、たとえば「フィボナッチ数列」を「フィナ ボッチ数列」と言いまちがえるなどのことはよくあることである。訳者の大久保康雄氏は、膨大な量の翻訳をこなした人で、下訳から訳したものもあるだろうか ら、そのあたりに理由があるのかもしれない。

彼が(普段とは)違うものを探しに外出しない夜はなかった。
*go out looking for something different: これはgo shopping(買い物に行く)、go swimming(泳ぎに行く)、go fishing(釣りに行く)と同じ形。「…しに行く」の意味で、go doingの形をとるのは、スポーツやリクリエーション・レジャーに関する場合に限られるので、CROWN Iのルドルフにとっての外出は、リクリエーションのようなものなのであろう。しかし、冒険がテーマの小説で、リクリエーション扱いしてよいものだろうか?  原作ではgo doingの表現は見つからなかった。作家にとっては、ルドルフの行動をリクリエーション扱い・気晴らし扱いするのは、まずいのかもしれない。

彼はいつも、つぎの街角の周辺で待ち受けているかもしれないものに興味があった。

141C
ある晩、ルドルフは、その都市[=ニューヨーク]のうちで古いほうの地区にある通りをゆっくりと歩いていた。
→ある晩、ルドルフはニューヨークで古いほうの地区にある通りをゆっくりと歩いていた。
*the older part of the city: 比較級olderの前に定冠詞theがついているのは、大雑把にいうと、ニューヨークを2つにわけた場合に、古いほうを指しているからである。原作では、 中心街を2つにわけたときの古いほうとなっている。▼18世紀の市街地の中心はブロードウェイBroadway沿いにあったが、20世紀初頭には、中心は 5番街Fifth Avenueに移っていった。したがって、ルドルフが歩いている通りはブロードウェイであろう。
当該箇所の原作と新潮文庫の訳はつぎのとおり。
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One evening Rudolf was strolling along a crosstown street in the older central part of the city.
ある晩のこと、ルドルフは、かつてこの市の中心部であったあたりを南北に走っている街路を、ぶらぶら歩いていた。
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アベニューAvenueが南北に走り、ストリートStreetは東西に走っているのだが、教科書のこの箇所のstreetは街路名ではなく、一般名詞なので、べつに南北に走っていてもよい。Broadwayは南北に走っている。

多くの人々がその夜、通りを歩いていた。

自宅へと向かう者もいれば、あるレストランでディナーを食べる予定の者もいた。
or 自宅へと向かう者もいれば、大したレストランでディナーを食べる予定の者もいた。
→自宅へと向かう者もいれば、ちょっとしたレストランでディナーを楽しむ予定の者もいた。
*some restaurant: restrantが単数形なのでsomeは「いくつかの…」の意味ではない。someには「ある…;どこかの…」のほかに「大した…」の意味もあり、ここでは特定できない。
当該箇所の原作と新潮文庫の訳はつぎのとおり。
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――the home-hurrying, and that restless contingent that abandons home for the spacious welcome of the thousand-candle-power table d'hôte.
一つは家路を急ぐ人々であり、一つは何千燭光*(しょっこう)かの照明に輝くレストランのうわべだけの歓迎を受けたいために家庭に帰ろうとしない心おちつかぬ人たちの群れである。
*1燭光≒1カンデラ
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どうやら、ここでのsomeは「大した…」の意味らしい。教科書のテキストだけからとなると、そう解釈はできないだろうから、やっぱり「ある…;どこか の…」としか、普通は解釈できないだろう。そこで、このsomeと同じようなことばが日本語にもないか考えてみると、「ちょっとした…」がこれにあてはま るのではないか? たとえば、女の子を食事に誘う際に「明治通り沿いにちょっとしたステーキハウスがあるんだけど……」と切り出した場合、この「ちょっと した」は「こぢんまりした」という意味と同時に、「なかなかよい」という意味も含むので、someの意味がどっちなのかわからないときには「ちょっとし た」などのsomeと同様の多義性を備えた語を選ぶようにする。

彼は混雑しているレストランを通りすぎ、その隣に[=そのレストランの隣に]開いているドアを目にした。
→彼は繁盛しているレストランを通りすぎ、レストランの隣でドアが開いているのを目にした。

そのドアの上には、医院[or診療所]の看板があった。
*主語はa sign for doctor's office。Above the doorは、aboveという前置詞で始まっているので主語ではない。原則として、前置詞で始まるフレーズは主語となることはない。あくまでも原則だが。

ひとりのすごい大男がドアのところに立っていた。

彼は、そばを通りすぎる人々にチラシを配っていた。

ルドルフは以前、そのような人々を目にしたことがあった。

そのチラシには、3階にある医院の医師の氏名が表示されてあるものであった。
→そのチラシには、3階にある医院の医師の氏名が印刷されているものであった。
*原作では、診療所のチラシは印刷されている。

ルドルフはそれ[=チラシ]を見ることもなく、すばやくそれ[=チラシ]を受け取った。
→ルドルフは一瞥(いちべつ)を加えることなく、すばやくチラシを受け取った。

141E
彼がさらに歩き続けたときに、そのチラシを見た。
*onは副詞で「ずっと;どんどん;絶えず」の意味。動作の継続を示す。
further: farの比較級で、ここでは副詞。farには2つの比較級があり、ひとつはfarther(さらに遠くへ)と、もうひとつはfurther(さらに進ん で)である。距離の意味のときのときの「遠くに」の場合fartherを用い、程度の意味のときにはfurtherを使う。「歩き続け」ているのであるか ら、距離のfartherを使うべきである。もっとも、イギリス人は、自分たちがいつもだらけて発音するせいか、その発音にあわせて、距離の場合でも furtherを使う傾向が強く、また、一般に、くだけた言い方ではfurtherのほうが多いが、しかし、文法に沿っているという点からも fartherにしておいたほうがよいと思うのだが。▼追記:O. Henry自身が、The Green Doorで 「距離」の意味で、furtherを使っていました。When he had travelled a few yards further ...(数ヤードさきへ行ってから……)とありました。100年前からそうだったのかと驚きつつ、こちらが参照している原文は、講談社インターナショナル 株式会社が発行している文庫本なのだが、また、ひとつ気になることが出現した。今、引用した箇所の動詞がtravelledとなっている。どうして、イギ リスつづりなのだろうか? アメリカつづりなら、traveledと、l(エル)を重ねないはずだが。100年前は、それほど分化していなかったのか?

彼は驚いた。

彼はそれ[=チラシ]をひっくり返し、興味をもって再び見た。

片方にはなにも書いていなかった。
→チラシの片面は白紙だった。

もう一方の面には3つの語が(書いて)あった。「緑の扉」と。
→もう片方の面には「緑の扉」という3文字が書いてあった。
*ここで「書いてあった」としたのは、医院(原作では歯科診療所)のチラシは印刷されているが、The Green Doorのチラシは手書きという設定になっているから。

142B
3歩先のところで、別の男性が、受け取ったチラシを投げ捨てた。

ルドルフはそれを拾い上げた。

通りと番地とともに、医師の名があった。

これこそが、ルドルフが自分のチラシで見つけるであろうと期待していたものであった。

ルドルフは向きを変え、再び医院のそばを歩いて通りすぎた。

男が彼にもう1枚チラシを手渡した。

またもや、チラシには「緑の扉」と書いてあった。
*to read ...: 〈掲示などが〉…と読める;…と書いてある▼英文のreadは3人称単数の-sがないので過去形。

(ほかに)3枚か4枚かのチラシが通りに落ちていた。

ほかの人がそれらを捨てていたのだ。

彼はそれら[=通りに落ちているチラシ]を見た。

どのチラシにも医師の名前が(その上に)書いてあった。

142C
ルドルフは、自分がチラシを受け取った場所にまで戻り、建物を見上げた

冒険が自分を呼んでいると彼は思った。
→冒険が自分を招いていると彼は思った。
*call O: Oを誘(いざな)う:I felt the mountains calling me.私は山が招いているように感じた。

1階にはレストランがあった。

2階には人々が生活する部屋があった。
*rooms where people livedに相当する原作の箇所は、the regions of domesticity(家庭生活の領域)となっていた。どういうわけか、ちょっと笑ってしまいました。

その上(の階)に、医院があった。

142D
ルドルフは建物に入り、2階へと歩いて上った。

あたりを見回すと、緑の扉が目に入った。

彼はまっすぐに緑の扉へと歩き、大きな音で[=威勢よく]ノックした。

彼は低く静かな音を耳にし、扉がゆっくりと開いた。

まだ20歳手前の娘がそこに立っていた。
*A girl not yet twenty: 原作も同じ表現なのだが、新潮文庫の訳では「まだ二十歳そこそこの若い娘」となっている。A girl not yet twenty = A girl who had not reached the age of twenty yetとかなんとかのことだと考えた。『大辞泉』によると「そこそこ」は「[接尾辞]数量を表す語に付いて、それに達するか、達しないかの程度である意を 表す」とあった。ということはつぎのように整理できる。
not yet twenty < 20 years old
二十歳そこそこ ≦ 20 years old
20歳手前 < 20 years old
たぶん、普通の人にとってはどうでもいい問題なんだろうな。

彼女の顔は、たいそう蒼ざめており、彼女はたいそう弱っていた[=衰弱していた]。
*英語で「顔」がwhiteだというと、「蒼ざめた」などの悪い意味。肌が白いなどの意味ではない。

彼女は片方の手を突き出し、倒れ始めた。

ルドルフは彼女を抱きとめ、室内へと運び、ベッド(の上)に寝かせた。

彼は扉を閉じ、見まわした。

部屋はとても貧しかったが、たいへんきれいだった。

143B
娘は目を閉じたまま横たわっていた。
*layは自動詞lieの過去形。
lie-lay-lain-lying: 横たわる(自動詞)
lay-laid-laid-laying: …を置く(他動詞)
with her eyes closed: 目を閉じた状態で;目を閉じたまま▼一般には、独立分詞構文にwithのついた用法と説明される。この場合、with O doingとwith O doneの形があるが、with O doingはO doingが能動態の関係にある場合で、with O doneはO doneが受動態の関係にある場合である。
with her eyes closedはher eyes closedの部分はHer eyes were closed.(彼女の目は閉じられた)となるからである。ここでのclosedは他動詞である(145ページ14行目のher eyes closedのclosedは自動詞で過去形)。
He got out of the car with the engine running.(エンジンをかけたまま彼は車から降りた)
のthe engine runningは、The engine is running.(エンジンがかかっている)という能動態の関係だからである。

しかし、今や、彼女はそれら[=目]を開き、それから、若者[=ルドルフ]は彼女の顔を見た。

目はにび色で、鼻は小さく、髪は褐色だった。
*gray: にび色;灰色;鼠色:イギリス英語ではgreyとつづる。▼女性の容姿を形容するのに「灰」や「鼠」はないだろうと思って、やや古めかしい「にび色」に してみたが、漢字にすると「鈍色」を「鈍」が入っている。あんまり、意味はなかったかな。とはいえ、「にび色」だと「灰色」や「鼠色」ほど直接的にはマイ ナスのイメージが入らないと思うのだが。

それは、こうしたこと[=この状況]をすばらしい冒険にする顔つきだった。
*a face: 顔;顔つき;外見;外観
to make O C: OをCにする▼O = this, C = a wonderful adventure
this: 具体的に指しているものが何なのか、はっきりとはしていない。her faceではない。「この状況」くらいのことか。原作に目を通してみたが、よけいにわからなくなtった。
to make this a wonderful adventure: a faceを修飾する不定詞の形容詞用法。
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この文とその直前の文の、原作における該当箇所と新潮文庫の訳。
The frank, gray eyes, the little nose, turning pretty onward; the chestnut hair, curling like the tendrils of a pea vine, seemed the right end and reward of all his wonderful adventures.
つぶらな灰色の目、こなまいきにつんと上を向いている小さな鼻、豆のつるの巻きひげのようにカールした栗色の髪、これこそ、あらゆるすばらしい冒険の真の結末であり報酬であるように思われた。
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けれども、彼女の顔つきは、痩せていて、蒼白かった。

143C
娘はルドルフを見つめ、ほほえんだ。

「私、倒れたんでしょ?」と彼女は言った。

「それこそ、3日間、食べないときに起こることよ」
→「3日間、なにも食べなかったら、こうなるものよ」
That's [what happens (when you don't eat for three days)].
[...]が名詞節。名詞節の中にある(...)がwhat happensを修飾する副詞節。
ここでのwhatは先行詞を含む関係代名詞と説明される。日本語では「……であるところのもの」「……するところのもの」というのが直訳として提示されることが多い。
英語で置き換えるものとしてはa thing which ...とか、things which ...がある。昔は、what = that whichを使って説明したが、この置き換えでは理解しづらいということで、a thing which、things whichを説明に使うのが圧倒的になっているようだ。a thing whichを使って書き換えるとつぎのようになる。
That's a thing {which happens (when you don't eat for three days)}.
それは、あなたが3日間食べないときに起こることである。
{...}は直前の名詞を修飾する形容詞節。
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この文と直前の文の原作における該当箇所と新潮文庫の訳。
"Fainted, didn't I?" she asked, weakly. "Well, who wouldn't? You try going without anything to eat for three days and see!"
「わたし、気をうしなっていたのね?」と彼女は弱々しくたずねた。「でも、誰だって気をうしなわずにはいられないわ。三日間なにも食べずに暮らしてみればわかるわ」
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144A
「なんだって!」とルドルフが叫んだ。
*どうでもいいことなんだが、原作では、ここの台詞は"Himmel."となっている。Himmelはドイツ語で「空;天国;神」を意味するとともに、こ ういう使い方で「なんてこった」の意味もある。「緑の扉」が発表されたのは、ある資料によると1904年のことで(また別の資料では書籍の一部として 1906年)、当時は、ドイツ系移民は少なくなかったようである。1881年から90年の総移民数に対するドイツ系移民の割合は27.7%で、1891年 から1900年では13.7%である。今でも白人のうちの22%はドイツ系だそうである。
(1) Himmelというドイツ語を使っている。
(2) Rudolf Steinerという名前は、姓のみならず、ファーストネームまで、ベタなドイツ系である。
以上の2点から、ルドルフはドイツ系移民1世で、あとの場面で「ぼくも、この世界でひとりぼっちなんです」と言っているのは、単身でアメリカに移住してきたということを暗に示しているのかと思った。

「ぼくが戻ってくるまでまっていてくれ」
*until: イギリス人はuntilを、アメリカ人はtillを使う傾向があると、なにかで読んだことがある。オー・ヘンリー(O. Henry)はアメリカ人なので、untilを使っていることに違和感をおぼえた。そこで原作を確かめてみた。tillだった。なぜ、こういう改変をする のかと思ったが、tillは知っていてもuntilは知らない生徒が多いから、教育配慮として単語を変えたのだろう。

144B
彼は緑の扉から外へと駆け出し、通りへと駆け下りた。

20分後、彼は戻ってきた。

両手は食料品店から手に入れたものでいっぱいだった――バターつきのパン、冷たい肉コールドミート、ケーキ、魚、牛乳、さらにそれ以上であった。
*bread and butter: バターつきのパン▼単数扱い。andの部分はnとしか発音しない。むりやりカタカナで書くと「ブレドゥンバタ」である。だから、発音どおりにbread n butterあるいはbread 'n butterと表記することもあり、そういうブランド名もあるようだ。▼また、「バターつきのパン」が売っているということにも驚いた。パンとバターを別 々に買ってくることはあっても、「バターつきのパン」が当時、売っていたというのは、変な気がした。WikipediaのBread and butterの項目につぎの迷信のような内容のものを見つけた。
カップルが手をつないで歩いているときに、街灯のポールなどの障害物に出くわすと、いったん、手を離し、bread and butterと言い、障害物を越えると、ふたたび手をつなぐということをするそうだ。19世紀には、こうした迷信あるいは習慣ができていたと推察されるそ うだから、オー・ヘンリーは、なんらかの象徴的意味を込めて、ルドルフが買ってきたものの筆頭にbread and butterを挙げている可能性がなくもない。*cold meat: コールドミート;コールド=ミートとも表記する。ローストビーフや生ハム、ソーセージなどの料理しないでそのまま食べるもの、食べられるものの総称。「冷 肉」という訳語もあるが、豚しゃぶなどを氷水に入れて冷やしてからドレッシングをかけて食べるものかぎって「冷肉」を日本語ではよく使うようだ。ウェブで 検索してみると、「コールドミート盛り合わせ」「コールドミート=サラダ」など、ふつうに出てきた。ついさっきまで、コールドミートなんてことばは知らな かった。確かに、coldがついていることに違和感を覚えていた。148Cのところで理由とともに述べたが、この物語は1879年から1898年の間の出 来事だと推測できる。当時、電気冷蔵庫(4度から10度)は一般には普及していなかった。1911年に家庭用冷蔵庫が販売されたが、当時の価格で 1,000ドルで、T型フォード2台分の値段であった。となると、チルド(0度から4度)、フローズン(-18度以下)は考えにくい。当時の冷蔵庫は、筐 体(きょうたい、箱って意味)の上方に氷を置いて、それで冷やすものが普通だった。ビール工場などでは大がかりな冷蔵施設が用いられていたけど。普通の生 肉のことをいうのに、わざわざ、coldをつけるのは「変だ」とは思っていたけど、そこで終わっていました。申し訳ない。[この項、2008年1月25日 追加]
*fish: aがついていないから複数形。それはともかく、原作では、oyster(牡蠣(かき))となっていた。牡蠣は、たんぱく質やカルシウム、亜鉛などのミネラ ル類をはじめ、さまざまな栄養素が多量に含まれるため「海のミルク」とも呼ばれている。フランス人(の男性)が好むのも、精力がつくと信じているからであ る。ルドルフ自身は、名前からするとドイツ系移民(あるいはその子ども)であった可能性が高く、しかも、当時の移民の出身地からすると、ドイツ南部のバイ エルン地方あたりの出身である可能性が高く、したがって、牡蠣を食べる習慣はなかった可能性が高い。それなのに、慌てて食材を購入したときに牡蠣が入って いるのは、知識として牡蠣は栄養豊富だと知っていたか、あるいは食料品店で事情を話して、3日も食べてない人に適した食材は何かを訊ねたのかもしれない。 その結果、栄養満点の牡蠣をルドルフは買ってきたわけだ。登場人物の購入してきた品目を決める際にも、作家はいろいろなことを考えているはずで、ここで は、牡蠣を買ってきたということで、ルドルフの心づかいや配慮が表現されていると把(とら)えることができる。それをfishに書き換えたことで、こうし たことが台なしになっていると考えられなくもない。

「つまらない愚か者だけが」とルドルフは言った。「食べることをやめる。きみはそんなことをすべきではない。ディナーの用意ができているよ」
*「食べることをやめる」は、「食べないでいる」「断食する」「絶食する」などでもよいかと思う。
Dinner is ready.: この程度の食事でdinner(正餐;晩餐)はおおげさじゃないかと思ったところ、原作ではSupper is ready.となっていた。やっぱり。

彼女が食卓のところにある椅子に移動するのを彼は手伝った。
*to help O do: Oが…するのを手伝う;Oが…するのを手助けする

彼はもう1脚の椅子を食卓のところに移動させ、坐った。

145A
娘は長い間、食べ物のない状態でいるある種の小さな野生動物のように食べ始めた。
→娘は長い間、飢えた状態のある種の野生の小動物のように食べ始めた。

彼女の体力が戻るにつれて、ゆっくりと、彼女はルドルフに自分の[=自分についての]ちょっとした話を語りはじめた。
→体力が戻るにつれて、ゆっくりと、彼女はルドルフにささやかな身の上話を語りはじめた。
*原作の該当箇所とその部分の新潮文庫の訳。
... gradually, with the return of strength ... she began to tell him her little story.
次第に力をとり戻してくるにしたがって……彼女はささやかな身の上話を語りはじめた。

毎日、この都市[=ニューヨーク]では、彼女のもの[=彼女の身の上話]のような1000もの(身の上)話がある。
→毎日、ニューヨークでは、彼女の身の上話のようなものはいくらでもある。
*a thousand storiesとあっても、本当に1000であるというわけではないので、「いくらでもある」「数多くある」「数え切れないほどある」「あまたある」などとするとよいであろう。
原作の該当箇所とその部分の新潮文庫の訳。
It was one of a thousand such as the city yawns at every day
それは都会の人間なら毎日あくびが出るほど聞きあきている数多い挿話のひとつだった。

それは店員をしている娘の話であった――充分ではない賃金、病気になること、失われた職[=失業]、失われた希望。
→店員をしている娘の話であった――不充分な賃金しかもらえず、病気になり、職を失い、希望を失ったこと。

それから、緑の扉のところの冒険家。
→それから、緑の扉から冒険家が現れたこと。
*原作の該当箇所とその部分の新潮文庫の訳。
... and ― the knock of the adventurer upon the green door.
……そして――そこへこの冒険家が緑の扉をノックしたというわけなのだ。

145B
しかし、ルドルフにとっては、つまらない話ではなかった。

それは重大な話であった。
*なぜ、この文ならびに直前の文は、唐突に「こども英語」なのだろうか?
原作の該当箇所とその部分の新潮文庫の訳。
But to Rudolf the history sounded as big as the Iliad or the crisis in Junie's Love Test.
しかし、ルドルフにとっては、この身の上話は、『イリアッド
』か、あるいは『ジュニィの恋の試練』の危機一髪の場面と同じくらい重大なことに思えた。
*『イリアッド』は英語読みで、世界史の教科書ではギリシャ語読みの『イリアス』になっている。

145C
「それに、そうしたことのすべてをあなたが経験したとは!」と彼は言った。
→「それに、あなたがそんなつらい目に遭ったなんて!」と彼は言った。
*to go through ...: …を経験する

「それから、この都市には、家族または友人はひとりもいないんですか?」
→「それから、ニューヨークには、家族も友だちもひとりもいないんですか?」
*ニューヨークに家族がいれば、3日間も絶食することは、ふつうありえないのに、ルドルフはどうしてこんなことを訊ねるのであろうかと思った。原作を見た。relatives(親戚;親類)となっていた。またか。

145D
「ひとりもいません」

145E
「ぼくも、この世界でまったくの独りなんです」とルドルフは言った。
→「ぼくもこの世でひとりぼっちなんです」とルドルフは言った。
*all alone: ただ独りで;独力で▼allは副詞で、aloneを強めている。

145F
「私はそのことをうれしく思います」と娘は言った。
→「いっそそのほうがうれしいわ」と娘は言った。

自分が独りであることを彼女が喜んているということを耳にすることはその若者を喜ばせた。
→自分がひとりぼっちであるということを彼女が喜んだと聞いて、若者は喜んだ。
*Itは形式主語で、意味上の主語はto hear ...の部分。
= The young man was pleased to hear that she was glad (that) he was alone.

145G
まさに突然、彼女の目が閉じた。
→不意に、彼女は目を閉じた。
*S close(s): Sが閉じる▼この文でのclosedは自動詞の過去形。だから、「Sが閉じる」というのが直訳。ところが、「目」などの場合は、to closeを他動詞として用い、つぎのように書くのが普通。ちなみに143Bのwith her eyes closedのclosedは他動詞の過去分詞。
= Very suddenly she closed her eyes.
原作を調べると、こうなっていました。邦訳は新潮文庫から。
Very suddenly her eyelids dropped and she sighed deeply.
とつぜん娘は目を閉じて深い溜息(ためいき)をついた。
her eyelids droppedの直訳は「瞼(まぶた)が落ちた」で、これに引きずられて、her eyes closedとしたのかもしれない。

彼女がそれら[=目]を再び開くことは容易ではなかった。

「私、眠りに落ちるところです」と彼女は言った。
→「私、眠ってしまいそうだわ」と彼女は言った。
*原作では台詞のところはI'm awfully sleepy(私はひどく眠い)となっている。このままでもよいし、あるいはawfullyをveryに変えてI'm very sleepyとするのもひとつの手として考えられるが、ここでは、たぶん、to fall asleepという熟語を教えたかったのであろう。それにしても違和感をおぼえる箇所はすべて原作とはちがっているのはどうしてだろうか?

「それに、私は気分がよいと感じている」
→「それに、気分がいいわ」

145H
「じゃあ、ぼくは、おやすみなさいと言いましょう。
→「じゃあ、ぼくは失礼します。
新潮文庫の訳:「では、失礼します。
(新潮文庫の訳だけで、原作の原文が提示されていない場合は、教科書の英語と同じ場合。以下同様)

長い夜の睡眠は、あなたにとってすばらしいものになるでしょう」
新潮文庫の訳:ゆっくり一晩おやすみになったら、きっと元気がでますよ」

145I
彼は手を差し出し、彼女はそれ[=彼の手]を取り、「おやすみなさい」と言った。

しかし、彼女の目がひとつの問いを問いかけた。
→しかし、彼女の目が問いかけてきた。
→しかし、彼女は目で問いかけてきた。

146B
彼はことばで答えた。
or 彼は(目ではなく)ことばを使ってこたえた。

「ぼくは、きみが元気かどうかを確かめるために明日、やってくるよ」
*原文と新潮文庫の訳。
"Oh, I'm coming back tomorrow to see how you are getting along."
「いや、明日きっとまた様子を見にきますよ」
to comeの進行形は、確定的な未来・予定を示す。往来・発着の動詞で用いる。この意味を表すために新潮文庫の訳に「きっと」を入れている。

146C
それから、彼が扉のところにいるときに彼女がたずねた。「どうやって、あなたはたまたま私の(部屋の)扉にやってきたのですか?」
→そうして、彼が扉のところにくると彼女がたずねた。「どうして、偶然にも私の(部屋の)扉のところにやってきたの?」
*このhappen to(たまたま…する;偶然…する)は、訳しにくい。で、原作を見ると、happen toはなかった。
原作の該当箇所と新潮文庫の訳。
Then, at the door, ..., she asked: "How did you come to knock at my door?"
扉口のところまでくると、……娘はたずねた。「どうして、あなたは、わたしの部屋の扉をノックなさったの?」

146D
彼はしばらく彼女を見つめ、そして、突然の(胸の)痛みを感じた。
→彼はしばらく娘を見つめ、それから、急に、(胸の)痛みを感じた。
→彼はしばらく娘を見つめ、それから、不意に、胸が痛んだ。

あの紙切れが、もしも、ほかの男の手に置かれていたとしたら、どうであったろうか?
→あの紙切れがほかの男に手に渡っていたら、どうなっていただろう。
What if ...?: もし…だったらどうなるか?;もし…としたらどうなるだろうか?▼現在では、if節の中は直説法が一般的だが、ここでは仮定法過去完了になっている。仮定法過去完了とは「過去の事実に反する仮定」を示す。
一般には、 What will happen if ...?またはWhat would happen if ...?の略だとされるが、この文はちがう。基本的には以下のとおり。
What if that piece of paper had been placed in another man's hand?
= What would have happened if that piece of paper had been placed in another man's hand?
訳:もしもあの紙切れがほかの男の手に渡っていたら、何が起こったであろうか?
ところが、ルドルフが「もしも、過去のあの時点で、あの紙切れがほかの男の手に渡っていたとしたら、今頃は、どうなっているのであろうか?」と考えたのであるならば(この確率が高い)、つぎのように、帰結節を仮定法過去にする。
What would the situation be like if that piece of paper had been placed in another man's hand?
訳:もしもあの紙切れがほかの男の手に渡っていたら、状況はどのようなものになっているだろうか?
詳しくは、文法書で仮定法のところを熟読してください。質問は受け付けますけど。たぶん、高校の授業では、訳を言うだけで、素通りすると思うが。

即座に、彼女は真実を知ってはならないと彼は決意した。
→彼女にほんとうのことを知らせてはならないと、即座に彼は決心した。

助けを求めるためにあんな奇妙な方法を彼女がとったと自分が知っていると、彼は彼女に決して知らせてはならないのだ。

147A
「だれかほかの人をさがしていたんです」と彼は言った。
→「ほかの人をさがしていたんです」と彼は言った。

147B
彼が見た最後のものは、彼女の微笑であった。
→彼が最後に見たのは、彼女のほほえみであった。The last thing {(that) he saw} was her smile.
{...}は直前の名詞を修飾する関係代名詞の形容詞用法。

147C
扉の外で、彼は立ち上がり、それから、廊下を見て回った。
*looked around the hall: to look around the store(店を見て回る)やto look around the town(町を見物して回る)などの用例がある。また、原作では、ルドルフは階段の上で立ち止まり、あたりを見まわしてから、廊下の向こう側へ歩いて行 き、また引き返すということをしている。廊下を歩いて往復したことを、looked around the hallと表現したものと思われる。
a hall: 玄関;玄関の広間;ホール:US廊下▼アメリカ英語では「廊下」の意味があり、原作から考えて、「廊下」の意味で使っているはず。

建物の中のどの扉も緑色に塗られていた。
→建物の中のどの扉も緑色に塗ってあった。

147D
彼は通りへと(階段を)下りて出た。

あの大男はチラシを配りながら、まだ、そこにいた。
or あの大男は、まだ、そこにいて、チラシを配っていた。

ルドルフは「緑の扉」ということばの書いてある紙を彼[=大男]に見せた。

147E
「なぜ、あなたはこれを私にくれたんですか?」と彼はたずねた。

147F
「私はこれらのうちの何枚か(のチラシ)と、医師の氏名の(印刷して)ある何枚か(のチラシ)を渡しています」とその男[=大男]が言った。
→「そのチラシと医師の氏名の入った医院のチラシを配っています」と大男が言った。

「彼らは金を支払って、これら(のチラシ)を私に配らせている」
→「あの人たちは私に金を払って、このチラシを配らせているんですよ」
*to pay somebody to do: お金を支払って人に…させる
原作では、芝居の興行主が黒人の大男(エチオピア人)に1ドルを渡して、歯科診療所のチラシにまぜて「緑の扉」という芝居のチラシを配っているという設定になっている。
They: だれを指しているのかわからないが、つぎの台詞で「『彼ら』ってどういうことだい?」と訊いているので、訳さないわけにはいかない。「彼ら」「あの人たち」「やつら」「あいつら」などから、適切なものを考える。
なお、このテキストとちがって、Theyを訳さなくてよい場合には、英文を受動態に書き換えて、適当に処理する。
I am paid to give these away.
私はお金をもらって、これらを配っている。
私は、これらを配るように、お金をもらっている。
→お金をもらって、このチラシを配っているんですよ。

148A
「しかし、彼らとは何を意味するのですか?」
→「しかしまあ、あの人たちってどういうことだい?」

148B
男[=大男]はほほえんだ。

「あれですよ」と彼が言って、通りの向こうを指さした。
*to point down ...: …の向こうを指さす。

148C
ルドルフは通りの向こうを見た。
→ルドルフは通りの向こうに目をやった。

そこで、彼は劇場を目にし、劇場の上には大きな看板があって、白熱灯で囲まれていた。
→そこに、劇場があるのを彼は目にし、劇場の上には大きな看板があり、白熱灯で囲まれていた。
*「……大きな看板があり、白熱灯で囲まれていた」としたのは、a big signとin electric lightsの間にカンマ(,)があるから。
後半部分の主語はa big sign。
in light: 光を受けて
an electic light: 白熱灯;電灯;白熱灯の光;電灯の光
in electric lights: 上記の2つの項目から、たとえば、看板の斜め下から白熱灯が看板を照らしている様子を思い浮かべたのであるが、教科書の挿絵からするとちがうようだ。長方 形の看板の周囲を大きくはない電球が囲んでいる。inにこういう意味があるかどうかは不明だが、「電球に囲まれて」とするとよいであろう。
エジソンによる白熱電球の発明(というか、実用化)は1879年なので、この作品の舞台は、1879年以降のニューヨークとなる。作品が発表されたのは、 1904年なので、それ以前ということになる。この作品の原作の前のほうで、ルドルフは「ある雑誌の編集者に、ミス・リビー作の『ジュニーの恋の試練』ほ ど自分の人生に大きな影響をあたえた書物はない、と書き送ったことがある」とあり、『ジュニーの恋の試練』は1886年に発表された作品なので、ルドルフ が編集者に手紙を送ったのはそれ以降である。『ジュニーの恋の試練』の作者Laura Jean Libbeyが結婚したのは1898年なので、ルドルフに編集者に手紙を書き送ったのは、それ以前である可能性が高い(婚姻を知らずにMiss LIbbeyと書いた可能性もなくはない)。19世紀末には電灯により昼夜明るいニューヨークであった。この短編は、こんなころの話です。

それ[=看板]には「緑の扉」と書いてあった。
*It says, "....": それには…と書いてある。

148D
街角の商店のところで、ルドルフは新聞を買うために立ち止まった。
*to stop doing: …するのをやめる
to stop to do: …するために立ち止まる;…するために手をやすめる

彼が(商店の)そとにふたたび出たとき、彼は思った。「ぼくがこんなふうに彼女に出会うことは計画されていたということをぼくは知っている。ぼくはそのことを知っている!」
→ふたたび外に出たとき、彼は思った。「ぼくがこんなふうに彼女に出会うことが予定されていたのは、ぼくにはわかっている。わかっているんだ!」
→ふたたび外に出たとき、彼は思った。「こんなふうに彼女に出会うことは、運命だったとわかっている。わかっているさ!」
*to say to oneself: 心の中で考える;独り言を言う▼高校のテキストでは「考える」の意味で登場することが圧倒的であり、「独り言を言う」の意味である場合は少ない。どちらの意味が迷ったときには「思う;考える」にしておくのが無難とされる。

148E
というのも、ルドルフは真の冒険家であったからだ。
*for: というのも…だからだ▼Rudolf wsa a true adventurer(ルドルフは真の冒険家であった)は文として完全であり、文の成分として欠けているところがない。したがって、その前にあるfor は、副詞か接続詞のいずれかである。辞書でforを引くと、副詞の意味はないので、接続詞の意味をさがす。▼この意味のforは、通例、その前にカンマ (,)やセミコロン(;)を前において、前の文の付加的な説明・理由として用いる。文語的であり、通例、会話では用いない。

〔了〕


The Green Doorが載っている。

The Green Doorの邦訳「緑の扉」が載っている。

GoogleでThe Green Door by O Henryなどで検索すれば、ウェブ上でも原作は見つかるよ。

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和歌山県橋本市出身。世界文化遺産である高野山の麓です。
和歌山県立橋本高等学校を経て、早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業。
B型Rh+。天秤座。家紋は「丸に九枚笹」。
大叔父(おおおじ)は精鋭集団である帝国陸軍航空審査部所属で、「キ61(きろくいち)の神様」と呼ばれた坂井雅夫少尉。キ61は三式戦闘機「飛燕(ひえん)」のことである。

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