掃除機496方式(英語名:HAL496 Systems)による英語などの学習方法を提唱するブログです。英文に関して、解説・対訳などの掲載を中心としています。訳し方は、そのときの状況によるので、直訳っぽいのもあったりします。転載及び2次使用可。(C) no rights reserved / aucun droits réservés / keine Rechte vorbehalten / 著作権全面放棄

5.22.2008

Soseki in London 対訳

Soseki in London

ロンドンの漱石

1.1

Natsume Soseki went to Britain about 100 years ago as a student {sent by the Ministry of Education}.

夏目漱石は、文部省によって派遣された留学生としておよそ100年前に英国に留学した。

He was 33 years old and a professor at the Fifth High School in Kumamoto then.

彼は、当時、33歳で、熊本県第五高等学校の教授であった。

He left Yokohama by ship in September 1900, and reached London two months later.

彼は19009月に船で横浜を出発し、2か月後ロンドンに到着した。

1.2

Britain was more developed than other countries in those days.

英国は、当時、ほかの国々よりも発展していた。

There was already a web of undergrounds in London30 years before the first underground in Tokyo.

ロンドンに地下鉄網がすでに存在した――東京で最初に地下鉄が登場する30年前である。

Everything {o Soseki saw and heard} was a wonder.

漱石が見聞したものはみな、驚くべきものばかりであった。

1.3

He enjoyed 1buying used books, 2walking in the parks and 3going to the theaters.

彼は古本を買ったり、公園を歩いたり、劇場に行ったりして愉しんだ。

He wrote this to his wife: “I wish [o you could see the wonderful theater shows].

彼はこうしたことを妻に書き送っている。「素晴らしい劇場でのショーを、あなたも観られればよいのにと思う。

In one show, I saw about sixty women {dancing on the stage in gorgeous costumes}.”

あるショーで、豪華な衣装をまとってステージで踊っている60名ばかりの女性を目にした」

1.4

Soseki’s life in London, however, was difficult sometimes.

しかしながら、ロンドンでの漱石の生活は、時には、困難なところがあった。

The prices were very high for him.

物価は、彼にとって、たいへん高いものであった。

He stopped going to college (because he felt [o the tuition was too expensive] and [o the classes were not useful]).

授業料は高すぎるし、授業は役に立たないと感じたので、彼は大学に通うのをやめた。

And (being unfamiliar with the city,) he often 1lost his way or 2took the wrong train (when he went out to see the sights).

しかも、ロンドンにはなじんでいなかったので、景色を見に外出したときには、彼は往々にして道に迷ったり、列車に乗り間違えたりした。

2.1

Soseki wrote about his English: “It’s a pity [that my listening comprehension is not good enough, to say nothing of my speaking ability].”

漱石は自分の英語力についてこう書いている。「話す能力についてはいうまでもなく、聴解能力が充分にはよくないのは、残念なことである。

In Japan, he did not have much trouble talking with Britain people, but the people in London often speak too fast for him to understand.

日本では、彼は英国人と話すときにそれほど困ったりはしなかったが、しかし、ロンドン市民は往々にして、漱石が理解するには話すのが速すぎた。

In particular, he found the cockney dialect {spoken by working-class people in East London,} very difficult to follow.

具体的には、ロンドン東部の労働者階級の人々が話すコクニーという訛りのある英語は、理解するのがたいへん困難であると、漱石は思った。

2.2

But, in fact, Soseki’s English must have been quite good.

しかし、実際のところは、漱石の英語は、たいへん素晴らしかったにちがいない。

He could understand plays.

彼は芝居を理解することができた。

And he was taking private lessons in English literature.

英文学の個人授業を受けていた。

He probably was critical of his English (because he wanted it to be perfect).

英語が完璧であることを望んでいたので、おそらく、漱石は自分の英語に対して批判的であったのであろう。

He was a perfectionist by nature.

彼は生まれついての完ぺき主義者なのであった。

2.3

(Referring to the English ability of the Japanese at that time,) he wrote: “The Japanese 1can read difficult books and 2know many difficult words, but 1the mouth and 2the ear are far behind.

当時の日本人の英語能力について言及して、彼はこう書いている。「日本人は難解な書物を読むことができ、難解な単語を多数知っているが、しかし、口と耳はずいぶんと遅れている。

(If many foreigners visit Japan in the future,) our English will not be good enough to communicate with them.”

将来、外国人がたくさん日本を訪れたならば、日本人の英語は外国人と意思を伝え合うには充分によいとはいえないであろう。

2.4

Regrettably, even a hundred years later, the problem {o Soseki pointed out} hasn’t been solved.

残念ながら、100年後でさえも、漱石が指摘した問題点は解決していない。

3.1

Soseki stayed in Britain for two years.

漱石は2年間、英国に滞在した。

During his stay, he lived in five different boarding houses.

滞在期間中、彼は5つの異なる下宿に住んだ。

He stayed at the first two for only a few weeks each (because the rents were too high).

彼は最初の2つの下宿には、それぞれたったの数週間しか滞在しなかったが、家賃が高すぎたからである。

3.2

The third boarding house was cheap, but some months later, the landlady decided to 1move to a different area and 2open a new boarding house.

3番目の下宿は格安であったが、しかし、数か月後、女主人は別の地区に引っ越して、新しい下宿を開こうと決心した。

Soseki was (not at all) fond of the landlady, but he did like her sister, Kate Brett.

漱石は、女主人のことはまったく気に入ってはいなかったが、しかし、彼は女主人の妹ケイト=ブレットのことはじつに気に入っていた。

Unlike the landlady, Kate was a quiet and thoughtful woman.

女主人とちがって、ケイトは物静かで思慮深い女性であった。

(When Kate asked him to move to the new house with them,) he accepted.

ケイトが女主人とケイトと一緒に新しい住居に引っ越すように求めたとき、漱石は受け入れた。

3.3

Soon S1a young Japanese scientist, S2Ikeda Kikunae, moved in.

まもなく、若き日本人科学者池田菊苗が引っ越してきた。

He was a very bright person, and Soseki must have enjoyed his company.

彼はたいへん聡明な人物であったし、さらには、漱石は池田とのつき合いを愉しんだにちがいなかった。

After a few months though, Ikeda moved to another place, and it encouraged Soseki to look for a better boarding house.

しかし、数か月後、池田はほかの場所に引っ越したのであるが、このこと[=池田が引っ越したこと]は漱石を、よりよい下宿を探すようにと勇気づけた。

He put an ad in the paper:

漱石は新聞に広告を出した。

3.4

Japanese gentlemen looking for boarding with an English family, with literary taste.

「日本の紳士、文学趣味の英国人家族の下宿を物色中。

Quiet and convenient flat in N., N.W., or S.W. preferred.”

北・北西・南西地区の静かで便利なアパートを希望」

4.1

Soseki received several replies to his ad.

漱石は広告に対する応募を何件か受け取った。

In July 1901, he moved into a boarding house {run by two elderly women, Miss Leale and her sister}.

19017月、2人の年輩の女性、リールさんとその妹が営む下宿に引っ越した。

The sisters were sophisticated and the environment suited Soseki.

その姉妹は洗練されており、環境は漱石に適していた。

He lived there about one and a half years (until he left Britain).

英国を発つまでのおよそ1年半の間、漱石はそこで過ごした。

Soseki was fairly happy there, but his mind was troubled by many things.

漱石は、そこでは、まったくしあわせであったが、しかし、精神は多くのことに悩まされていた。

4.2

From the time {o Soseki first started studying English literature at university,} he had been obsessed with one simple question: “What is literature?”

漱石が初めて大学で英文学を研究し始めたときから、彼は、「文学とは何か?」というひとつの単純な問いに取り憑かれていた。

He hasn’t yet found a clear answerthe purpose for his life.

彼はまだ明確な答え――人生の目的――を見出してはいない。

In Britain he hoped to find the answer.

英国で、彼は答えを見出せることを望んだ。

In reality, however, Sstudying English literature as scholarship was a fairly new concept even in Britain.

しかしながら、実際のところ、学問として英文学を研究することは英国においてでさえ、まったくの新しい概念であった。

4.3

After six months of studying in Britain, he finally realized [that he would have to create his own theories on literature].

英国での研究の6か月後、文学に関する自分自身の理論を生み出す必要があるということを、漱石は最終的に悟った。

Ikeda Kikunae’s logical way of thinking had inspired him.

池田菊苗の論理的な思考法に彼は意欲をかき立てられた。

From then on, he avoided social life, spending most of his time alone 1reading books and 2thinking.

そのとき以来、彼は社会生活を拒み、ほとんどの時間をひとりで読書したり、思考したりすることに費やした。

Eventually, his closed lifestyle led to a mental breakdown.

最後に、彼の閉鎖した生活様式が原因で、漱石は精神衰弱になった。

5.1

The Leales were very worried about Soseki’s mental problems.

リール姉妹は漱石の精神の問題についてたいへん心配した。

They recommended him to bike-riding, a popular hobby in Britain at the time.

当時、英国で流行していた趣味である自転車に乗ることを、ふたりは漱石に勧めた。

Soseki 1followed their advice and 2began bike-riding.

漱石はふたりの助言に従い、自転車に乗ることを始めた。

His cycling trips through the parks let him get back in touch with the world around him.

公園を自転車で移動することは、彼の周囲をとりまく世界に彼が再び接触できるようにした。

自転車であちこちの公園を駆け巡ると、漱石は自分の周囲の世界と再び接触できるようになった。

This may have helped his mental condition.

このことは漱石の精神状態にとって助けとなったかもしれない。

He even wrote about his poor cycling skills in a comical essay, “A Bike-riding Journal.”

漱石は、「自転車乗り日報」というおもしろおかしい随筆でみずからの貧弱な自転車乗りの技術についてしたためてさえもいる。

5.2

Thanks to the kindness of the people around him, Soseki recovered.

周囲の人々の親切のおかげで、漱石は回復した。

In October 1902, he took a trip to Scotland for a week.

190210月、彼は1週間に亙(わた)ってスコットランドに旅行に出かけた。

It was his only sightseeing trip while in Britain, and he had a wonderful time.

英国での唯一の観光旅行であったし、漱石は素晴らしい時間を過ごした。

He finally felt some joy come back to his life].

大きな喜びが自分の人生に戻ってくるのを漱石は漸(ようや)く感じた。

In December of that year, with 400 books {o he had bought,} he left for Japan, returning in late January 1903.

その年の12月、自分で買った400冊の書籍とともに、漱石は日本へと旅立ち、19031月下旬に帰国した。

5.3

In one essay Soseki wrote: “My two years in London were the most unhappy two years of my life.”

ある随筆で、漱石はつぎのようにしたためている。「ロンドンでの2年間は私の人生で最も不幸な2年間であった」

Soseki suffered a lot, but out of his suffering he learned many precious things {that were later reflected in his writing}.

漱石は大いに苦しんだが、その苦しみの中から、後に、自分の作品に、反映される貴重なことがらをたくさん漱石は学んだ。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

とても役に立ちました。
有り難うございます。

匿名 さんのコメント...

ありがとうございます。授業で聞き損ねた分を見ようと思ってこちらを見たところ、こちらの訳の方が授業より素晴らしく、分かりやすかったので何度も使わせてもらってます。テストの時も役に立ってます。

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和歌山県, Japan
早稲田大学第一文学部哲学科哲学専修卒業、「優」が8割以上で、全体の3分の2以上がA+という驚異的な成績でした。大叔父は競争率180倍の陸軍飛行学校第1期生で、主席合格・主席卒業にして、陸軍大臣賞を受賞している。いわゆる銀時計組であり、「キ61(三式戦闘機飛燕)の神様」と呼ばれた男である。苗字と家紋は紀州の殿様から授かったものである。

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